最先端の技術や、人手はない。 だからこそ自分が“存在価値”を発揮できる。
サマリー
地元の静岡を離れ、大学から東京で暮らしていた外山さん。新聞広告やWeb広告の会社を渡り歩き、キャリアを積んでいましたが、お父様の病気をきっかけにUターンを決意。仕事をしながら、実家のみかん農家を手伝いはじめます。いまは、平日は浜松のWeb制作会社でディレクターを務め、土日はみかん作業。IT業界の最先端を離れることに、寂しさはありました。けれど「Webに詳しくない人が多い地元だからこそ、僕が役に立てることが多いんです」と語ります。仕事でも、農業でも、誰かの役に立てているという実感がうれしいと語ります。
Q.1 実家の農業について、どう考えていた?
Before
大学を卒業して以来、東京でずっと広告関連の仕事をしていた外山さん。ところが2017年の春、お父さんが病気になったという知らせを受け取ります。両親は、地元の静岡県で三ヶ日みかんを育てていました。
「父がしばらく療養するとなれば、母だけでみかん農家を続けることはできません。無理をして、母まで倒れることだって考えられる。実家がそんな状態なのに、僕が東京で働き続けることに、意味があるんだろうか?と思ったんです」
悩んだ結果、外山さんが選んだのは、Uターン転職&兼業農家という道でした。平日はこれまでと近しいWeb系の会社に務めながら、週末は実家の農業をサポートする。忙しくなるのはわかっていたけれど、不安はなかったといいます。
After
みかん農家がもっとも忙しいのは、10~12月ごろ。この時期は土日だけでなく、平日にも有給をとって会社を休み、収穫作業を手伝います。反対に、それ以外の時期は肥料をまいたり、木を剪定したり……。比較的ゆるやかに時間が過ぎていくのだそうです。
「平日のデスクワークと休日の肉体労働は、結構バランスがいいですね。父ももう少し病状が落ち着いたら、現場に戻りたいと言っています。だから僕は、母と一緒にそれまでこのみかん畑を守るんです」
昔から、帰省したときに手伝うことはあったけれど、ほんの少しだけ。いまでは作業の効率を上げるために、みかん畑を整えたり、収穫の方法を見直してみたり、といったさまざまなアイデアも浮かびます。外山さんのなかで、みかん農業が少しずつ“自分ごと”になってきているのかもしれません。
「収穫したみかんは、東京にいる友人に送ってあげたりしているんです。自分がつくったみかんで喜んでもらえることが、こんなにうれしいなんて、初めて知りました」と、外山さん自身もにっこり。
Answer
Q.2 本業の面白さは、どう変わった?
Before
外山さんは大学を卒業してから、いくつかの会社を経験しています。26歳で入ったIT企業は、2社目。そこではスマートフォンアプリの広告営業を担当していました。
「毎月メンバーが10人ずつ増えていくような、上り調子の会社でした。成長意欲が高い同僚や上司に囲まれて、刺激的だったんですが……思うように成果が出ず、ストレスと疲労で立ち行かなくなってしまったんです。自分に知識が足りないという自覚があるのに、ゆっくり学ぶ時間もとれないまま、金額の大きな案件を動かすのが苦しかったんだと思います」。
今度はもっと地に足を着けて、しっかり結果を出せるようになりたい。そんな気持ちを抱えながら、外山さんは数ヶ月休職したあと、同業他社に転職を果たします。
「新しい会社では、なんとか自分のペースをつかんで、仕事を進められるまでになりました。大活躍するような営業マンではなかったけれど、アプリのプロモーションという新しい領域で、さまざまな専門知識をつけながら働けることを、楽しく感じられてきたんです」。
お父さんが病気だと知り、Uターンを決めたのは、ちょうどそんなタイミングでした。
After
地元・静岡で就職したのは、Webサイト制作や広告を扱う株式会社NOKIOO。同じIT業界の営業職とはいえ、出来上がった広告を売ることが多かったいままでから、業務内容は大きく変わりました。お客様のご要望を伺って、デザイナーに伝えながら、Webページや広告をつくっていく。いわば“ゼロから1を生み出す”役割です。そんな仕事に地方で取り組むことに、外山さんは大きな魅力を感じはじめています。
「東京に比べると、地方のたとえば地元の工務店、ディーラー、病院などにとって、Webはまだまだ身近な存在ではありません。だからこそ、僕らがお役に立てる。仕事で自己承認欲求が満たせずに苦しんだこともあったけれど、地元に戻ってからは、ずっと楽になりました。『外山さんに任せていたら安心だから』なんて、うれしい言葉もいただける。ITの最先端である東京で働いていたときよりも、自分の存在価値を発揮できているんです」。
働く環境にも、変化がありました。
「大きい会社にはやっぱり、仕事をしない人が一定数いたように思います。いまは二十数人の会社だけれど、みんな前向きで、一人ひとりが真摯に仕事に取り組んでいる。切磋琢磨しながら伸びていける環境なんです」と、外山さん。
Answer
Q.3 静岡は、どんな場所に見える?
Before
10代のころは、サッカーに打ち込んでいた外山さん。中学の授業が終わったあとは、地元の三ヶ日町からバスに乗り、1時間以上もかけて、浜松市内のクラブチームに通っていました。
「練習は楽しかったけれど、家に帰るともう夜更けなんです。学校へ通うにも、サッカーをしに行くにも、とにかく時間がかかる。湖と山にかこまれて、閉鎖的で、めちゃくちゃ不便な町だと思っていました」
暮らしを変えてみたい気持ちから、高校卒業後は上京することを決めていました。「このまま地元にこもっていたら、なんだか先に進めないような気がしたんです。悩むこともなく、東京の大学を受験しました」。
After
思ったとおり、東京はとても便利で楽しい場所でした。歩ける範囲にコンビニも、飲食店もある。遊ぶところにも困りません。だけど同時に、地元のすばらしさも強く感じたといいます。
「大学にはいろんな地方の人が集まっているので、自分の地元について話す機会が少なくありません。僕が生まれ育った三ヶ日は、有名なみかんの産地。愛媛や和歌山には及びませんが、県名ではなくて地名を冠しているみかんブランドって、めずらしいんですよね。『静岡みかん』じゃなくて『三ヶ日みかん』。地元に誇れる名産があることのすばらしさを、上京してはじめて知りました」
そして、ふたたび地元に戻ってきてからは、10代のころは感じなかった長所にも気づきます。
「昔は、狭い人間関係がイヤだと思っていたんですが……、じつは良い面もあって。地元では、子どもたちとにこやかに挨拶が交わせるんです。東京ではなかなかそういうコミュニケーションが取れませんでした。いまは朝から、とても清々しい気持ちになれます」
Answer
Q.4 プライベートの過ごし方は、どう変わった?
Before
東京にいたころは電車移動だったので、一日8,000~10,000歩は歩いていた、という外山さん。そのうえ、休日は趣味のサッカーにあてるなど、身体を動かす時間を意識的にとっていました。でも、とにかく仕事が忙しかったため、自由時間はほんの少し。
「Webや広告を扱う仕事では、流行や世の中の動きをしっかりとらえておくことが大事です。だから寸暇を惜しんで、インターネットの記事やビジネス本、エンターテインメントなどに触れる時間も確保するようにしていました」
一人暮らしだったので、もちろん家事もこなさなければなりません。なかなか、のんびり過ごせる時間はありませんでした。
After
静岡では、すっかり車生活。一日の歩数は激減して、ひどい日は2,000歩ということもあるそうです。
「だけど、職場の隣に浜松アリーナがあって、一回400円でスポーツジムが使えるんです。電車通勤していたときは、運動する日にわざわざトレーニングウェアを持ち歩かなければいけなかったけれど、いまはいつでも車に積んでおけばOK。気軽にトレーニングができるので、助かっていますね。平日夜のフットサルも続けています」と、満足げ。
車に乗っている時間がぐっと増えたため、ラジオもよく聴くようになりました。「情報収集のためじゃなく、純粋に好きなものを追いかける余裕が生まれたように思います。実家に戻って、家事が楽になったことも大きいですね。東京時代に購入したが読めていなかった本も、すこしずつ消化しはじめました」
平日はIT企業、週末はみかん農業。自分の時間なんてないように思えるけれど、じつは、地元のほうがゆったりと暮らせているようです。
Answer