大阪芸人から鹿児島県鹿屋市のPR職員に。 見つけたのは、自分にしかできない仕事。
サマリー
大阪で芸人の道を歩んでいた半田さんは、鹿屋市副市長のリクエストを受け、市のPR職員に転身しました。大阪では「まあまあがんばっている若手芸人の一人」だったのが、鹿屋では「MCお願いするなら、半田さん」と引っ張りだこの大人気に。若者が少ない鹿屋では、それぞれが得意分野を生かして、お互いに頼り合うのが当たり前だったのです。半田さんにとって、ローカルは「自信を持って、自分にしかできない仕事に向き合える場所」でした。
Q.1 仕事のしかた、どう変わった?
Before
お笑い芸人として大阪で活動していた半田さん。彼女の芸人人生は、順風満帆でした。路上ライブが松竹芸能の目に留まり、瞬く間にテレビのレギュラーを複数抱えるまでに。「どつき漫才をしながら、ロケ芸人をしていました。山でタケノコを掘ったり、海でマグロを釣ったり、かなりハードでしたね」。やがて相方が体調を崩し、引退してしまいます。ピン芸人として踏ん張っていたところに「地域おこし協力隊」の話が舞い込んできました。
当時の鹿屋副市長が「地域のオフィシャルリポーター」になれる人材を松竹芸能にリクエストし、半田さんに白羽の矢が立ったのです。突然「鹿屋市役所の職員になって、地域のPRをやってみないか?」と言われた半田さんの第一声は、「鹿屋って、どこ!?」でした。鹿児島県に行ったことすらなかったという半田さん。「日本のフロリダですよ、と聞いて『めっちゃいいやーん!』って思いました」。当時を振り返ってカラカラと笑います。
After
数ヶ月後、鹿屋に移り住んだ半田さん。まずは地元の新聞社やテレビ局を回り、営業を重ねました。ポツポツと出演依頼が入りはじめ、そのたびに全力で地元の特産品をPR。次第に依頼された仕事をこなすだけでなく、自ら仕事の範囲を広げていくようになります。
「例えば、鹿屋の特産品の一つにカンパチがあり、以前から『カンパチつかみ取り』というPRイベントをやっていました。が、その進行たるや、芸人の目で見るとまぁ散らかっていて……(笑)。そこで、MCをやらせてほしいとお願いしました。さらに、目玉になるものが必要だと考え『カンパチ解体ショー』を提案したんです。自分で出刃包丁を買って練習し、実演しています」。
「自分が期待されているのは、引き受けた仕事を全うするだけでなく、PR活動の先頭に立つことだ」— そう理解したときから、半田さんの仕事に対するスタンスが変化しました。「瞬時に自分の役割を捉えて動く。それは芸人の性かもしれません。舞台や番組は、みんながそうやって立ち回って成り立つものですから」と話します。今も、時間ができると市役所の各課を回って「ネタ」を探し、台本を書き、地元のテレビ局に売り込んで……新しい仕事をつくり出しています。
Answer
Q.2 何のために働くか……モチベーションの変化は?
Before
半田さんが、縁もゆかりもない鹿屋で働くことを決心したのはなぜでしょう。
天真爛漫に見える彼女の答えは、ちょっと意外なものでした。「そのほうが圧倒的にしんどいからです。小さい頃から母親に『二者択一ならしんどいほうを選べ』と言われてきました。すると、がんばらなきゃなりません。でもそれって死ぬほどのことじゃない。ちょっとがんばれば周りが喜んで、自分もうれしくなれるんです」。
しかも、鹿屋行きの条件は、すべてにおいて半田さんにとって厳しいものでした。「収入はぐっと減ることがわかっていました。現地には知り合いも友人もいません。さらに、当時お付き合いしていた方が大阪にいましたから、周囲は『当然、断るよね?』という感じでした。10対0で行くほうがしんどい! だからこそ……決断してしまいました(笑)。そこには『大阪での経験がどこまで通用するのか試してみたい』っていう思いもありました」。
After
見ず知らずの土地に飛び込むのは、不安なもの。半田さんも「芸人が市役所で働くなんて、絶対孤立するだろう」と、独りぼっちになることを覚悟していたとか。それでも「しんどいほうを選ぶ」という彼女のポリシーは貫かれます。
例えば、地産品のお茶の開発会議でのこと。「コーヒーのようにドリップするタイプのお茶で、外国人モデルを起用したポスターもつくったのに、試飲会に用意されたのが和風の湯呑みだったんです。『ここはおしゃれなマグでしょ!』ってツッコミました(笑)。こんな些細なことも、長年の関係性や相手への気遣いで地元の人同士では言いにくい場合があるんです。しがらみのない余所者である私が率先して言葉にし、嫌われ役になろうと思いました」。
しかし、持ち前の愛嬌とコミュニケーション能力、何よりも鹿屋を PRしようとがんばる姿に、周囲の人たちの半田さんを見る目が変わっていきます。「今では信頼できる友人がたくさんできました。人脈は、私が鹿屋で手に入れた最大の宝です」と胸を張ります。「しんどいほう」を判断基準にしてきた半田さんですが、地元の人たちとの交流が深まるにつれ、肩肘張らずに「鹿屋にとってよりよいほう」を選べるようになっていました。
Answer
Q.3 都会暮らしと田舎暮らし、どこが違う?
Before
半田さんは、大阪市天王寺区育ち。関西有数の商業施設が建ち並ぶエリアです。「109へ歩いて行けるようなところ」で子供時代を過ごしました。地方で暮らす親戚もなく、田舎の暮らしがどういうものかまったく知らなかったといいます。
そして、芸人になってからはプライベートがないほど忙しい日々を送っていました。「早朝からロケに出て、夜は打ち合わせ、自宅に帰ってからもネタを書いたり台本を覚えたり。だからといってそれが不満だったわけでもなく、私にとって『人生=仕事』が当たり前でした」。
路上ライブでスカウトされて芸人となった半田さんには、「私はきちんと修行できていない」という後ろめたさが常にあったそう。どんなに忙しくても走り続けたのは、きっとそんな気持ちもあったからでしょう。しかし、相方が過労で倒れてしまいます。「相方は私より10歳年下でした。辛そうにしているのをわかっていながら『もっとがんばろうや』としか言えなくて。彼女が疲れ果てて立ち止まったとき、あぁ、私がちゃんと見てあげられなかったからだ……と思いました」。このことを話すときの半田さんは、とても苦しそうでした。
After
大阪時代から同居していた犬、猫、小鳥、トカゲを引き連れて、鹿屋での暮らしがスタートしました。第一印象は「海、山、空がきれい〜」。24時間明るい街で暮らしていた半田さんにとって、夜の暗闇すら新鮮だったとか。
生活が落ち着くにつれ、少しずつ地域を知るようになりました。最初の1年を終え、地元の行事やお祭りを一通り経験した頃には、好きな場所が鹿屋のあちこちにできたといいます。「霧島ヶ丘公園はおすすめです! 春と秋にはバラ園が見頃、夏はひまわりが満開。冬も遅咲きのコスモスが楽しめます。錦江湾と薩摩富士(開聞岳)の眺望は必見です」。
漁業や農業が盛んな鹿屋は、食の宝庫でもあります。「カンパチ、エビ、豚肉、サツマイモ……鹿屋はとにかく食べ物が最高! 大阪の基本は出汁の味ですが、こちらは素材を生かした料理が醍醐味。私のお気に入りは海沿いの『みなと食堂』さん。カンパチの漬け丼は絶品です」。半田さんは、みなと食堂の大将ともすっかり仲よしです。
テレビやラジオの収録日は鹿児島市内まで出かけ、事務もこなし、夜は打ち合わせや会合。実は、忙しさは大阪時代とあまり変わらないそう。「私はきっとどこにいても『人生=仕事』なのだと思います。でも、以前は目の前のことをこなすのに必死だったのが、ここではいい意味で余裕があるというか、周りのこと、鹿屋全体のことなど、広い視野で物事を見渡せるようになりました」。
Answer
Q.4 仕事で得るもの、どう変化した?
Before
いつも明るく振る舞う半田さんですが、大阪時代は常にプレッシャーを感じていたといいます。「テレビにしろ、舞台にしろ、1回1回が崖っぷちの勝負でした。私の代わりはいくらでもいて、一度失敗したら次はない。そう感じていました」。
もちろん、こうしたプレッシャーが半田さんを強くし、芸を磨く糧になったに違いありません。どんな現場でも100%の力を出し切るのは、プロとして当然のことです。責任感の強い半田さんは、自分は芸人という「商品」だと考え、完璧であろうともがいていました。
After
「でも、鹿屋で仕事をするうち『ここに半田あかりの代わりはいないんだ』って思うようになりました」と話します。多少失敗しても「今日のMC、さすがだね」と言ってくれるお客さま。予定が詰まっていれば食事を抜くのが当たり前だった彼女に「ちゃんとごはん食べなさい」と言ってくれる同僚。それは甘えや馴れ合いとは違う、「補い合い」でした。
「地方は基本的に人材不足ですから、それぞれがお互いの得意分野を把握し、認め合い、補い合わなくてはなりません。私は、鹿屋にとって『MCができて、台本が書けて、コミュニケーションに長けた人』。都会では埋もれてしまうようなことでも、ここでは自分の特性として再認識できて、みんながそれを頼りにしてくれます。そして、私も自分に足りないところを別の誰かに頼ればいいんです。だから、自分に自信が持てるようになりました。地方の給料は高くはないし、人が少ない分、個々にかかる負担も大きい。でも、自信を持って仕事ができるっていいですよね!」
地域おこし協力隊の任期は最大3年。しかし、鹿屋の町の人に尋ねると「半田さん、どうにかずっと鹿屋にいてくれないかねぇ」という声が返ってきます。今や、その能力だけでなく、半田さんの存在そのものが鹿屋にとってかけがえのないものとなっているようです。
Answer