充実の東京ライフから実家の岩国へ 悩んだ末の、家業・漬物屋への転職
サマリー
大学卒業後、中野さんが実家に戻らず東京で働くことに決めたのは、いろんな人との出会いやチャンスが欲しかったからでした。目論見どおり、東京での暮らしは、充実した毎日。ところが、その毎日が、実家の違和感に気が付くきっかけになりました。社会人になってはじめてのお正月、帰省時に感じた「家族の間にただよう、なんとなくの息苦しさ」。原因は、毎日の仕事にあるように感じました。
思い悩んだ末に、中野さんは自分が家業の働き方改革の先導役になろうと、Uターン転職を決めました。
Q.1 就職活動前後で何が変わった?
Before
中野さんは、大学の教育学部を卒業しました。「最初は教員免許を取って幼稚園か小学校の先生になることを考えていました。五人兄弟の長女だったので、中国地方以外で働くことはぜんぜん考えていませんでした」。ところが、卒業が近づくにつれて、先生になろうとする自分に腑が落ちなくなってきたそうです。
「長女だし、地元だし、なんとなく安定を求めて先生になろうとしている自分に気が付いたんです。どういう先生になりたいか、どんな風に子どもたちを指導したいかなど、一番大切なことが考えられていませんでした。手段が目的になっている状態です。このまま先生になってはダメだと思って、急きょ就職活動をすることにしました」
活動中、中野さんは多くの人と出会います。自分の夢に向かって頑張る就活仲間、ありたい未来をいきいきと語る企業の社長。それらの出会いを通じ、やがて『夢に向かって生きる人を増やす』ことが中野さんの人生の目標になります。そして、東京の人材会社で営業職として働くことを決めました。
After
東京での生活は、忙しいながらも充実した毎日だったと振り返ります。「毎日、夜遅くまで働いていましたが、目標に向き合う毎日は幸せでした」
『夢に向かって生きる人を増やす』ために、まずは自分が成長すること。「1年目なので、まだ何ができたわけでもありません」と話す中野さんですが、その表情からも、一歩一歩階段を上がっていたことがうかがえました。
東京での勤務時代に、家業や岩国のことは考えなかったのですか?と聞くと「いつか、自分が成長できたと納得したときに、地元に帰ってなにか還元できたらな、とは思っていましたが、具体的な計画があるわけでも、見込みがあるわけでもありませんでした」との答え。就職活動を通じて、自分の意思で決めた進路に向かって、夢中だったことがうかがえました。
Answer
Q.2 Uターン転職を決める前後で何があった?
Before
転機は、社会人一年目のお正月ことでした。里帰りをした中野さんは、実家に戻り、そこで働く家族を見て、それまで感じることのなかった違和感を覚えます。「家族が『うまもん』で働くことをあまり楽しめていないように見えたんです。自分の大切な場所にそんな印象を持つことが、すごく胸に引っかかりました」
自身が東京で、日々笑顔で働けていたからこそ、感じたことなのかもしれません。産まれてから、大学に入るまでずっと過ごしてきた場所の、ごく当たり前の日常が、素敵に思えない。それは東京に戻ってからも引っ掛かり続け、無視できないものになっていきました。「なんとかするなら、長女である自分なのではないか」。中野さんは、迷い始めました。
After
東京での仕事や暮らしを捨てて、Uターン転職するのは、決断が難しいことでした。Uターン転職ということで、ただでさえ不安がつきまとう上に、戻る場所が実家だということも、より中野さんを迷わせました。
「お給料も、当然東京で働いていたときよりも下がります。和食や漬物の消費量が減っている中で、中小企業が生き残れるかどうかも不安です。考えても仕方ないのですが、もし会社が潰れたら、働く場所も、住む場所も、両方一気になくなるんだと思うと、不安で涙が出ることもありました」
それでも、と中野さんは自らを奮い立たせます。「『うまもん』で働く家族を笑顔にしたい。それができないと、東京にいる自分も、心からは笑えない。ましてや『夢に向かって生きる人を増やす』を生きがいに頑張りたいと思っている中で、家業に背を向けるのは間違っていると思ったんです」
そんな中野さんの気持ちを後押しする出来事もありました。LO活のセミナーに参加した際のゲストとの出会いです。そのゲストはUターンをして実家で働く女性でした。偶然にも中野さんと同じ境遇です。中野さんは、その女性の実家にまで足を運び、直接話を聞きました。「それで、決心がつきました。彼女は実家で働くことを、めちゃくちゃ楽しんでいたんです。不安も含めて楽しめばいいんだと教えてもらいました」
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Q.3 「働く」価値観はどう変わった?
Before
東京で働いていた頃の中野さんは、「毎日、目の前のことをがむしゃらに頑張ること」を心地よく思っていました。誰に指図されるわけでもなく、自主的に朝から夜遅くまで働き、お客さまの喜びを自分の喜びととらえていました。本来、プライベートな時間を仕事に費やすこともありましたが、それを嫌だと感じたことはありませんでした
「振り返って考えてみると、いい意味で組織の一員、という意識が強かったのだと思います。会社の大きな目標があって、部署の目標があって、それを達成するためにみんなで一生懸命働く。会社の仲間とも一体感があって、刺激的で充実もしていて、毎日がそんな感じでした」
岩国に戻った当初、中野さんは「みんなを笑顔に変えてやる!」、そう意気込んでいました。ところが、しばらく働いているうちに、その思いに変化が出てきたと言います。
「働く喜びとか、幸せな暮らしって、当たり前だけど、みんなそれぞれ違うということに気が付きました。社長である父にとっての幸せ、従業員にとっての幸せ、それを分かろうともせずに、自分の価値観を押し付けようとしているのかもしれないと思ったんです」。
中野さんが、会社のためにと思って始める取り組みも、どこか空回り。「何のために岩国に戻ってきたのか…」そう思うことも、あったのだろうと思います。しかし、そんな状況を乗り越えて、中野さんはこんな風に考えるようになりました。
「笑顔があふれる仕事場になってほしいという気持ちは変わりません。だから、まずは自分が誰よりも笑顔でいないと。めちゃくちゃ楽しまないといけなかったんです」
家業と向き合って、その中で自分がやりたいことや、できることを精一杯、楽しみながらやる。その姿を見て何かを感じてくれたら、これほど嬉しいことはない――。これこそが、中野さんがたどり着いた心境のように感じました。
中野さんは今、自分がやりたいことを探し、着実に行動に移しています。『うまもん』の漬物の魅力である「自然発酵」や「乳酸菌」の勉強をはじめたのは、自分の言葉でその良さを伝えられるようになりたいから。講演会やイベントに積極的に参加するのは、自らが『うまもん』の広告塔になりたいからです。同時に、そのような場で様々な人に会い、話をすることで、組織運営や経営の知識も少しずつ増えてきました。
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Q.4 家業の見え方や捉え方は、どう変わった?
Before
実家に暮らしていた頃の中野さんは『うまもん』の価値を考える機会など、ほとんどありませんでした。ひとり暮らしを始めた人が、「離れて分かる親のありがたさ」を口にすることがありますが、中野さんにとって『うまもん』自体も、親と同じようなものだったのかもしれません。
「家の食卓には毎日漬物が並んでいて大好きでした。漬物を食べる若者が減っていると言われることもありますが、私にとって漬物はあって当たり前のものでした」
一方で、東京で暮らしていた頃は「そういえば朝ごはんも食べてなかったなぁ」というような忙しい毎日。自宅から職場まで、電車で20分の道のりを、当時のお客さまや会社のメンバーのことを考えながら通っていました。家業のことを、近くにあり過ぎて考えなかった日々から、逆に距離が離れ過ぎて考えない日々へ。『うまもん』や漬物に考えをめぐらすことはありませんでした。
After
『うまもん』にUターン転職してから、中野さんの漬物の見方は大きく変わりました。漬物の持つ可能性や、『うまもん』の存在価値などに次々と気づくことができたのです。
「それまでは、ただ“美味しい”だけの存在だった漬物が、働き始めて、製造工程のことを知ったり、お店の歴史のことを知ったり、来店くださるお客様とお話ししたりする中で、全然違うものに見えてきました」
中野さんが今感じている『うまもん』の漬物の魅力は以下の4つだそうです。
1:「無添加・自然発酵・乳酸菌」で健康に役立つこと
2:日々の食卓と、人の心にゆとりを生む名脇役であること
3:(うまもんの存在は)地域の誇りであり、文化であること
4:漬物は保存食としての可能性に満ちていること
「でも一方で、漬物の消費量はどんどん落ちているし、何とかしないといけないと思います。東京から帰ってくるまではどこか他人事だった漬物が、今は何をするにしても、自分の軸になりました」
中野さんが東京で暮らしたのは、わずか1年に過ぎません。しかし、その1年は、彼女の価値観や働き感に大きな影響を与えてくれました。もし、大学を卒業してすぐに家業に戻っていたら、今のような気持ちにはならなかったかもしれません。中野さんの挑戦は始まったばかりです。
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