働き方紹介Before → After
福島県

歴史に残る復興を。 今、ここにしかない仕事ができる場所、福島へ。

【福島県】ならはみらい 事務局員
西﨑芽衣さん
1992年東京生まれ。立命館大学産業社会学部在学中、休学して1年間を福島で過ごす。卒業後は「一般社団法人ならはみらい」に就職し、福島県双葉郡楢葉町へ移住。東日本大震災による津波や、それに伴う原発事故で被災した町の復興を目指し、町民の生活再建の相談・支援などの業務を行っている。

サマリー

大学入学後まもなく、東日本大震災の被災地である福島を訪ねた西﨑さん。「まちづくり」に関心を抱き、頻繁に足を運ぶようになりました。福島で起きていることを知れば知るほど「一緒に考えたい」という気持ちが募り、大学3年生を終えたとき、1年間休学して1回目の移住を経験します。その結果、「住んではじめて見えてくるものがたくさんある」ことを痛感。復学後に東京で就職活動を行い、大手人材派遣会社に内定したものの、西﨑さんの気持ちは福島にありました。結局内定を辞退し、卒業後は福島県双葉郡楢葉町の社団法人職員に。2回目の移住を果たした現在は、町民の生活再建のサポートをしています。西﨑さんにとってローカルは「今、ここにしかない仕事ができる場所」でした。

西﨑芽衣さん
福島県双葉郡楢葉町ってどこ?

Q.1 福島に住む前後で、価値観はどう変わった?

Before

西﨑さんは、転勤族の両親とともに、東京、埼玉、大阪、福岡などを転々としながら育ちました。高校生になるとジャーナリズムに興味を持ち、進学ではメディア社会学を専攻できる京都の大学を選択。ところが、大学進学後、西﨑さんの興味は「ジャーナリズム」から「まちづくり」へと移っていきます。

「2012年、大学1年生のときに、被災地について学ぶ授業の一環として岩手へ行くことに。さらに、福島県双葉郡の楢葉町へも自主的に足を運びました。当時、楢葉町は原発事故の影響で避難指示解除準備区域に指定されており、誰も住んでいませんでした。駅はベニヤで塞がれ、家々は崩れ……。けれどもそこには人々が生活していた痕跡があり、ニュースで見ていたことが現実感を伴って迫ってきました

以来、西﨑さんは2〜3ヶ月に一度のペースで福島を訪れるようになります。
「仮設住宅の集会所に足湯を設え、そこでお湯に浸かりながら住民のみなさんの話を聞くという“傾聴ボランティア”を大学の仲間たちとはじめました。

現地の方々とのつながりが芽生え、さまざまなお話を伺う中で、長期的な避難による健康被害もさることながら、地域の人間関係やささやかな伝統といった“目に見えないもの”が壊されてしまったことが最大の問題だということに気づいたんです。福島が抱える複雑な状況に触れれば触れるほど、“一緒に考えたい”という気持ちが大きくなりました」

 

After

臨時職員としての仕事は、仮設住宅を訪問することや、町民のみなさんが自らアイデアを出し合ってそれを実現させる場を設けることでした。同年の9月に楢葉町の避難指示が解除されたこともあり、町に戻る人、戻らない人の意見が食い違う場面も。けれども、どちらが正しい、あるいは誤っているということはなく、それぞれの判断を尊重することが大切だと感じました。楢葉をふるさととするすべての人が“いつでも帰れる場所”をつくりたいと考えていました」

さらに、ボランティアとして通っていたときには見えなかったことも、現地での生活を通して見えるようになりました。「足湯での傾聴ボランティアは、住民の方々が仮設住宅の部屋に閉じこもったきりにならないよう、外へ出て交流する機会をつくるのが目的でした。しかし、訪問を重ねるうちに、ボランティアがいなくても外へ出る人は決まっていたのではないかと気づきました。ボランティアは、ときとしてやっているほうの自己満足になっていることも少なくないことを実感したんです。もっと本質的に地域のためになることをしたいという思いを強くしました

Answer

地域にとって本当に必要なことは、その地域に自ら暮らさなければわかならいと痛感した。

Q.2 福島に戻ると決めた、心境の変化とは?

Before

1回目の福島での暮らしを終えて京都へ戻った西﨑さんは、大学4年生となり、就職活動をはじめます。ただし、西﨑さんの胸には「いつか楢葉町へ戻る」という思いがありました。

1年間の移住を経て、“楢葉町で暮らしたい、楢葉町で働きたい”という気持ちは固まっていました。でも、一度企業に就職して物事を動かす経験を積むことが、楢葉町で物事を‟創る‟上では役立つだろうと考えたんです」

2016年6月には、求人広告や人材派遣を行う都内の大手企業からの内定を手にします。ところが、ここから西﨑さんの葛藤がはじまりました。

就職活動の面接では、学生時代にやったこととして楢葉町での活動を話す機会が多くありました。そうするうちに、私の中で楢葉町に対する思いが整理されていったんです。都心の大企業に入れば、大きな経験が得られるかもしれない。でも、今、この瞬間も楢葉町は刻々と変化している。被災地では日々起こる小さなこと一つひとつに向き合うことが大切で、その積み重ねの延長に人々の暮らしがあります。今こそ、楢葉町に暮らし、さまざまな問題に向き合い、一人の町民として考えたい……。悩んだ末、内定を辞退し、楢葉町で暮らすことに決めました」

 

2017年4月、西﨑さんは「ならはみらい」の正職員となり、2回目の移住を果たしました。現在は、町民の生活再建のサポート業務をしています。

楢葉町での仕事のやりがいについて、西﨑さんはこう話します。「ここでの仕事は、今しかできないものです。町民のみなさんの顔を思い浮かべながら働けるのはもちろん、私自身が町民であるため、仕事が自分の暮らしにも直結しています。自然と“想い”を持って仕事ができます。こうした充足感は、都会の大きな会社では得られなかったことかもしれません

 

さらに、楢葉町に託された大きな期待も、西﨑さんの背中を押しているようです。「楢葉町は全町避難をした町の中でも最初に避難指示が解除された場所です。この町がこれからどのように復興し、新たな暮らしをつくるのか。それは、世界中から注目されていることであり、歴史的にも非常に重要なことに関わっているのだと感じています

 

Answer

大企業で大きなビジネスを動かすことよりも、被災地で日々の課題を解決していくことにやりがいを感じた。

Q.3 仕事のスタンス、どう変わった?

Before

京都から福島へ通って傾聴ボランティアをしていた頃、また休学して福島で生活をしていた頃は、どうしても「人のため」というスタンスだったという西﨑さん。「町民のみなさんにとっても、私は“一定期間だけここにいる人”にすぎなかったと思います」と話します。よそ者だからこそ住民同士では言えないことを受け止められるという利点もあるものの、やはり町民との間には見えない壁のようなものがありました。

 

「さらに、休学していたときは、私自身が“1年”という期間にとらわれていました。卒業が1年遅れるからには成果を上げなければ……と考えていたんです。少しでも町をよくしたいといろんなことに挑戦できた一方で、丁寧さに欠けていたなと今になって感じています」

 

After

ならはみらいでの就職が決まり、2回目の移住によって期間限定の町民ではなくなったとき、西﨑さんの仕事のスタンスが変わりました。「人のため」から、「自分たちの暮らしのため」になったのです。「やるべき仕事は、どれも“他人事”ではなく“自分事”。

自分たちの暮らしをよりよくするために全力を注ぐ。焦らず、長期的な視点で物事を捉える。そういう働き方ができています。また、私自身が町民になったことで、周囲も覚悟を認めてくれたような気がします

 

さらには、現地での新しいつながりも生まれています。「若い人が少ないので、近隣の町村も含めて同世代の友人を増やしたいと思っています。同世代が集まったときの他愛もない会話って、やっぱり楽しいですから。それに、被災地で活動している人はみんなまちづくりに対して何らかの思いを抱いているので、仲間意識も強いですね。実際、仲間とともに対話の場をつくる“未来会議”という活動や、“ならはかわら版”というフリーペーパーづくりをしています

 

Answer

自分自身が地域に暮らす当事者になることで、「人のため」から「自分の暮らしのため」の仕事になった。

Q.4 日々の暮らしはどう違う?

Before

大学時代は京都の中心部で暮らしていた西﨑さん。欲しいものにすぐ手が届く環境にありました。「3 年生までは、金閣寺のすぐ近くに住んでいました。1回目の移住を終えて復学したあとは、三条にあるシェアハウスへ。同世代との共同生活は賑やかでしたし、コンビニもスーパーもカフェも本屋も、自転車でどこにでも行けるような便利な場所でもありました。都会なんだけれども、商店街の真ん中にあってローカルなつながりも味わえるような、とても楽しい生活でした」

それだけに、楢葉町に移る前はそれなりの心構えをしたそう。「震災後は、町に戻る人も限られており、買い物をする場所も仮設の商店やコンビニしかありません。まとまった買い物をするには隣の町まで行かなければならないので、それまでは必要のなかった車の免許も取りました。相当な不便を覚悟していました」

 

 

After

現在の暮らしについて「やはり、不便じゃないとは言えません。服や美容院には本当に困っています」と話す西﨑さん。しかし、意外な発見もありました。「私、両親が転勤族で各地を転々としていたので“近所のおばちゃん”という存在がいませんでした。しかし、かつて傾聴ボランティアで知り合った方や仕事を通じて出会った方々が、野菜やお惣菜を分けてくださったり、夕食に招いてくださったりあのボランティアは自己満足だったのではないかと思う部分もありますが、結果的に、こうして関係性を継続していくことにこそ意味があったのだと感じています

 

西﨑さんは、仲間とともに「住む人が増えることより、関わる人が増えることのほうが幸せではないか」と考えています。「震災を経験し、全町避難したこの町で、より楽しく暮らすためのアイデアをみんなで出し合い、一つずつ実現する。楢葉町だけでなく、隣の町村、さらに隣の町村と一緒に。それを積み重ねながら、私たち自身が暮らし続ける。そのことが、楢葉町を“被災した町”から“暮らしたい町”へと変えていくのだと思います

 

Answer

不便だからこそ、人と人とのつながりが幸せを育むと実感した。

編集後記

西﨑さんは、よく笑い、よく話し、楽しいことが大好きな、どこにでもいる若者です。でも、楢葉町のことを語るとき、彼女の言葉はぐっと強さを増します。「今の目標は何ですか?」と尋ねると、「当たり前のことが当たり前ではないからこそ、当たり前の大切さを感じています。この町で、当たり前に“暮らし続ける”ことが何よりです」と答えてくれました。まさに地に足をつけて暮らす彼女の姿には、心を揺さぶるものがありました。