スペシャルインタビュー
第14回 2040年の消滅可能性都市が世界遺産登録を目指す

第14回 2040年の消滅可能性都市が世界遺産登録を目指す

内閣官房 地域活性化伝道師 小島 由光 氏
1971年千葉県生まれ。2000年に株式会社スーパーソニック創業、外食産業、6次産業化マーケティング、コンサルティング指導をはじめ、地域活性化指導、地域振興活動を中心に商品ブランディングを行う。2009年8月には「五島列島支援プロジェクト」を立ち上げ。水産物の首都圏流通をはじめ、特産品開発プロデュース、観光誘致、重要文化的景観保全活動、五島カトリックの歴史継承などに取り組む。企業向け講演や執筆活動のほか、五島市ふるさと大使、新上五島町観光物産大使としても活動中。

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消滅可能性都市が世界遺産登録を目指す

消滅可能性都市が世界遺産登録を目指す

私が「五島列島支援プロジェクト」を立ち上げたのは、思いもよらなかったことがきっかけでした。

両親から祖父母が五島列島出身であることは聞いていたので、30代も後半にさしかかり、一度自分のルーツの地に行ってみようと、生まれて初めて五島列島に足を運んだのです。2009年のことでした。

 

五島列島は九州の最西端に位置し、大小140あまりの島々が連なっています。ルーツがあった久賀島の奈留瀬戸側にある蕨小島という島は日本で一番小さな有人島でした。この時に久賀島には人口が400人程度いましたが、聞けば一帯が「2040年の消滅可能性都市」となっていて、10年もすれば人口は半分以下となり、島民全員が強制移住となることもあり得るというのです。

 

何より驚いたのが、私の先祖は久賀島に今でも残っているキリシタン弾圧の地として知られる「牢屋の窄殉教地」で悲惨な弾圧を受けたキリシタンだったという事実。「牢屋の窄殉教地」は私にとっては後世に向けて平和と人権と自由を伝えられる貴重な場所。このまま島が廃れれば、先人が命をかけて守り伝えてきた信仰の歴史を残すことができません。

私は、東京で外食産業のコンサルタントをしています。ですから、島のことも、島の人も、島の産業も、何も知りません。それでも、「このままでは人がいなくなるにつれて島が消滅し歴史が風化してしまう。何とかしなくては」と、初めて訪れた久賀島に滞在中に強く考えるようになったのです。

島には初めて会った親戚がいましたし、五代前の先祖のお墓にも出会えました。その時、先祖に呼ばれたのではないかという思いも芽生え始めてきました。

 

とにかく島には美しい場所がたくさんありましたし、その土地や歴史に触れるたびに、五島列島のことを多くの人に伝えていかなくてはいけないものだと思えて仕方がなかった。だから、「この場所を残すために何ができるだろうか」と考え始めるまでに、時間はかかりませんでしたね。

一度東京に戻り、「できることから」と始めたのが、私自身が島に通うことでした。まずは半年後に、その後は2カ月に1度は足を運び、島中のいろいろな人に会って挨拶をして、活動を始めようと考えていることを伝え続けました。私のことを知ってもらおうと思ったのです。

 

1年くらいした頃には、半ば無理矢理アポを取り、「五島列島を活性化させるプロジェクトを立ち上げたのでご挨拶したい」と市長室のドアまで叩きました。無謀かもしれませんが、とにかく必死でした。

私は島の人間ではありません。だからこそ、島の人々にとっての日常が、私には非日常ともいえる素晴らしいものに感じられました。自然にあふれ、景色も美しく、獲れる魚は新鮮でおいしい。その素晴らしさをより多くの人に伝えたいと思いました。そこで考えたのが、「3つの柱」です。

 

1つ目は、島への観光誘致です。長崎県の旅行ガイド本のほとんどが、島の紹介にはページを割きません。観光スポットも、島の風景などの紹介も、また島への行き方すらほとんど載っていません。ですから、そうした情報をネットで紹介しようと思いました。

 

2つ目は、水産物の流通です。足を運ぶうちに、水産業が主要産業だとわかりました。市長に話を聞くと、水産業の疲弊が人口の減少につながっているということで、水産物の流通の活性化を目指して東京を中心に全国に五島の素晴らしい魚を紹介しようと考えました。

 

そして3つ目が、カトリック教会の保全です。五島列島には現在50もの教会があります。「牢屋の窄殉教地」では42名のキリシタンが亡くなっています。そうした厳しい時代に起きた信仰の歴史を後世に伝えることで、平和な世界の実現と、人権について振り返るための象徴となる場を残したいと思ったのです。

 

島の産業が元気になればその担い手も育ち、観光などで人の流通が生まれると島が活性化する。そうすれば島に人が残り、教会の保全にもつながるわけです。

結果的に2017年2月には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界遺産に推薦され、世界遺産登録を目指して動き始めています。

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「簡単にできるわけがない」という気持ちが活動の原動力に

「簡単にできるわけがない」という気持ちが活動の原動力に

島の至る所に、見たこともないような美しい景色が広がっていましたから、まずはFacebookのページを作り、私の視点で紹介したい場所を次々に公開していきました。当時、Facebookは日本でサービスを始めたばかりだったので、使い方もよく分かりませんでした。それにSNSは苦手でした。しかし、一人でも多くの人に見てもらいたい一心で、写真を撮ってはアップし続けたのです。

 

すると、写真をアップするたびに少しずつ「いいね」が増えていったんです。一般の人だけでなく、かつて島に住んでいた人たちが「懐かしい」と見てくれていたようです。中には「自分にできることがあれば協力したい」と連絡をくれる方もいました。そうやって少しずつ輪が広がっていきました。今では五島に在住のカメラマンが、最近の五島の風景を紹介しています。地元の方が地元を紹介することが何より嬉しいです。

 

水産物を流通させる取り組みについては、私自身初めての経験でした。離島のハンデを埋めるため、時間の短縮と輸送コストの低減をするために産直で飲食店に紹介することを考えたのです。島ではそもそもが地産地消型の消費形態。その中で特に魚は鮮度が重要なので、島外、それも東京に直接流通させようという考えもなければ、ノウハウもない。しかも出荷先となる都市部では、お店のメニューに載せる以上、一つの種類の魚につきたくさんの量が必要です。しかし、島では種類は豊富ですが、それぞれがいつも大量には獲れません仮に東京まで送れたとしても、島からだと日数がかかるので鮮度の問題も出てくる。課題は山積みでした。

 

それでも、一つずつトライアンドエラーを繰り返しながら、現在では漁業組合・漁師さん、飲食店の間に私が入り、状況を整理しながらの仕組み作りが進んでいます。約6年かかりましたが、現在ではようやく北海道から沖縄まで常時100社ほどに流通できるまでになりました。

 

SNSでの拡散も、軌道に乗るまでに5年はかかっています。気が遠くなりますよね(笑)。ですが、最初から時間がかかって当たり前だと思っていました。物事は続けなければ成立しないというのが持論です。10年かかっては遅過ぎるのかもしれませんが、そんなに簡単にできることだとは最初から思っていません。とにかく動き、一歩引いて客観的に見て、また動く。その繰り返しでここまで来ました。

 

地域活性の取り組みをしていると、その成果について考えさせられることは非常に多いです。しかし、私の活動によって何人の観光客が来たのか、水産物がどこまで流れているのかなんて、測ることはできません。私たちがどれだけ貢献したかなんて、正直言ってわからないんです。それよりも、うまくいったとしたらそれは島の人たちの努力があったからだと、そう考えています。成果は重要で時間がかかっても最後は結果を残すことだと思います。ですが活動をする事を良く言わない人たちもいます。だから私は周りからの活動の成果についての噂や評判について一切気にしないことにしているのです。もしかしたら、それによって、他の人ならめげてしまう部分も乗り越えられているのかもしれませんね(笑)。

 

それでも、五島列島支援プロジェクトのFacebookページへのフォローは10,250人を、五島列島水産流通のフォローは25,300人を超え、「おかげで少しずつは五島列島の知名度が上がってきた」と言っていただける機会は増えています。

 

また、「地のものの値段が上がって漁師さんたちは喜んでいる」という声も少しずつですが聞こえてきました。実際、魚の流通も、登録先は全国で750社を超え、多ければ月に500ケースは流通することができるまでになりました。水産流通は立ち上げから間もなく7年。根気というか耐えるしかなかった長い時間でしたが、喜びを感じる瞬間は増えてきています。

 

五島の海は国内有数の漁場で、たくさんの種類の魚が獲れますが、地産地消がゆえに売れない魚の多くは値段がつかなくなっています。地場の魚を流通させる機会を増やすことで、島で水産業を始める人も増え、結果として彼らの収入も増やしていけるんです。そうした「生産者支援」にもつながっている実感が出始めていて、大きなやりがいとなっています。

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その土地への思い入れがなければどんな仕事をしても続かない

その土地への思い入れがなければどんな仕事をしても続かない

「地方には仕事がない」という声は、五島列島でもよく聞かれます。一方で、Iターンで来た人がその地に新たなライフスタイルや文化を作り出すケースも出始めています。こうしたことを学問的・体系的に考えてしまうと難しくなってしまいますが、「挑戦する」という事は未知の事に取り組む訳なので当然失敗もあります。何でもトライアンドエラーだと思ってやってみたら、知らないチャンスが出てきたり、新たな方法が見つかったりするんだというふうに考えてみてはどうでしょうか。少なくとも、地方に仕事があるとかないとかではなく、「何か生み出せないか、チャンスを作れないか」と考えてみたら、その可能性は無限であることに気付けるはずです。

 

私の場合は一次産業の漁業が大きなテーマとなったので、地産地消のマーケットをいかに広域のマーケットにするかがポイントになりました。東京のマーケットに届けることが経済効果につながるわけで、いかに東京で競争を勝ち取るかが大事でした。

 

その点、東京にいると全国各地の人と知り合ったり話す機会がありますし、ものも溢れているので、都市部ならではのビジネス感覚やマーケットの感覚を自ずと身につけることができます。そうしたスキル・経験は、実はどこでも生かすことができるものだと思います。

 

最近は「ブランディング」があらゆる場面で求められます。ブランディングは重要ですが、そうしたイメージ戦略をいくら使ったところで、結局は「本質ありき」です。いいもの、特徴のあるものは必ず残ります。地方出身者は特に、地元のいいものを知っているわけですよね。それを都心で培ったビジネス感覚とうまく組み合わすことができれば、これからの地方創生に必要な人材として活躍できる場面は増えていくと思いますね。

 

UターンもIターンも、大事なのはその土地への思い入れではないでしょうか。根気だったり、地元に対する郷土愛だったり、「好きであり続けられる気持ち」が根底になければ、何をやっても続かないと思います。だから、地元やこれから行こうと思っている土地のことについて、まずはよく知ることです。思い入れが強くなるような関わり方を、自分で考えて作っていってほしいと思います。

 

そうやって気付いた魅力を、多くの人に知ってもらいたい、教えたいと思えば、人にアウトプットするための行動を起こしますよね。この「発信する」という行動こそが、前向きになるための一つの材料になるに違いないと思います。